500字程度のエッセイを書いています。


『夢うつつの海辺』


 眠れない夜に思い浮かべるもの。誰もいない海辺の風景。子供のころ買ってもらった南国の海のポストカード写真集。開くことはほとんどないが今でも本棚にしまわれている小さな本の風景の中に私はいつも入り込む。

 白い砂浜に打ち寄せる透き通った波。目眩がしそうに明るい光に包まれて耳をすます。寄せて返す穏やかな波音にちゃぷちゃぷと遊ぶような水音が混じる。温かな砂とぬるい水の混ざる場所に私は横たわっている。高い空に小鳥が飛び交い、私の目には黒いシルエットが映る。静かだ。目を閉じるとまぶたの裏が赤く透ける。深く息を吸いふうと吐く。吐いた息は泡となってコポコポと上へのぼってゆく。私はいつしか光さす海中に沈んでいる。原色の魚たちが忙しくゆき過ぎウミガメがゆったりと横切る。私は浮力と重力に逆らわずゆるゆると沈んでいく。海面が遠くなるにつれ青は深く濃くなっていく。

 北国の海のない街で生まれ育ち、南の海に触れたことはない。泳ぐことすらできない私が、ひとりきりで過ごす夢うつつの海辺。実在する場所なのだろうが行ってみたいとは思わない。どちらかといえば、最後の眠りが訪れるその時までこの幻想を持ち続けられたらと思う。


『パーカーの天使』


 18のとき、黒いパーカーを買った。肉厚だけど重くなくて妙に着心地が良い服だった。胸には水色の文字ででかでかと「HEAVEN」、背中には白い線で天使たちが描かれていた。これだけ言うとイタいパーカーって感じだけど、全体的に装飾的でなくシンプルで私はとても気に入っていた。大学に行く時もライブに行く時もバンドの練習をする時も私はそのパーカーを着ていた。人の家で酒を飲んで床に雑魚寝した時だって着ていた。あのパーカーの大きめなフードをかぶればどこだって安心して眠ることができた。

 上京して以降は部屋着にしていたけれど、それでも好きな服だった。遅くに帰ってジャケットを脱ぎ捨てて着替えたこと。ひとりぼっちの寒い部屋で眠るために着込んだこと。真夜中に彼氏とコンビニに行くときに羽織ったこと。今でもありありと思い出せる。

 だけど24の頃、毛玉が目立つようになり、着る機会がめっきり減ったパーカーを私は捨てることにした。私は、18の私が想像すらしなかった未来の部屋の窓辺に立ち、オレンジの光を注ぐ西の空に向かって天使たちを放した。彼らはラッパを吹き鳴らしながら桃色の雲の中へ溶けていく。私はそれを見送った。


『黒い服を着る』


 黒い服が好きだった。格好良いし合わせやすいし落ち着くし細く見えるし。だけど猫を飼い始めてから黒い服は着れなくなった。猫は腹の毛が白かった。どこにでもいる白キジ柄の雑種だったけど、少しだけ毛が長かった。尻尾は短く、先端の骨が折れ曲がっていた。顔は美形の部類に入ると思う。顎は細く鼻は高く、翡翠色の目は大きかった。彼はとても甘えん坊でいつも私の膝に乗っていた。黒い服はあっという間に毛だらけになった。私は黒い服を着るのを止め、灰色の服を好むようになった。猫の毛が目立たない唯一の色はそれだった。今まで気付かなかっただけで、自分に似合う色でもあった。下着、シャツ、セーター、スカート、コート、マフラー。何年もかけて私のクローゼットには灰色の比率が増えていった。

 ある日猫が死んだ。しばらく経ってから、また黒い服を着れるようになったことに私は気付いた。私は久し振りに黒い服を着た。喪服みたいだなと思って、またちょっと泣いた。その時猫が私の足に頭をこすりつける感触がした。目をやるとそこには透明な猫がいて、彼は透明な声で一声鳴くとどこかへ消えた。服についた毛も透明だから、黒い服でも大丈夫。大丈夫だからね。


『上空で眠る』


 広い広い建物。高い高い天井。丁寧な言葉遣いのアナウンスが空気をゆっくりかき混ぜる。明確な目的を持った人々がひっきりなしに行き交う場所。空港が私は好き。人々はみんな別の方を向いて、すたすた足早に歩く。閉塞感とは無縁の清潔な空間を移動しながら私たちは「てんでばらばら」である。それが何か、とても落ち着く。

 基本的に閉所が苦手でパーソナルスペースは広い方だと思っている。だけど私は飛行機に乗るのもとても好き。だって「ばらばら」であることはさっき認識したばかりだし、エンジンの轟音で些細な物音は聞こえない。距離が近かろうが同じ密室に閉じ込められていようが、私とあなたはきっぱりと断絶されている。そういう安心感がある。まるで胎内のようだと思う。止まないノイズに包まれている内に、私はだんだん眠くなる。

 飛行機がなぜ飛ぶのか、それは誰も知らないのだという。巨大な鉄の塊が何百もの人間を積んでわけもなく浮かぶ。そして時にはわけもなく落ちるのだろう。それでも私は安心して眠る。眠ったまま雷にでも打たれて、肉体は空中でばらばらになって、やがて海に落っこちる。魚や貝のごはんになって、今度はもっと深く眠る。


『インコの群れ』


 家の近所を歩いている時、頭上から聞き慣れない鳥の声がした。甲高く、よく通る声の方を見上げると黄緑色をした尾の長い鳥が飛んでいる。

「インコだ」

 思わず呟いた直後、その鳥がカラスに追われていることに気がついた。迷い鳥がカラスに追い立てられている、と私は青ざめた。鳥たちを見つめる私の目の中で、緑の鳥は白い小鳥になっている。何年も前に一緒に暮らしていた小鳥。可愛い声の、賢い小鳥。窓を閉め忘れた私の肩から、羽音だけ残して消え去った小鳥。

 高い木の上で繰り広げられる攻防戦をなす術なく見守っているといつの間にか、黄緑色をした尾の長い鳥が増えている。4羽、5羽、数はどんどん増えていく。私はこの時やっと、彼らが迷い鳥なんかではなく「野生」なのだと思い至った。スマートフォンで検索するとすぐに名前と野生化した経緯を知ることができた。私はカラスたちと渡り合う逞しいインコの群れを眺めながら、私が逃がした白い小鳥とその仲間たちが群れをなし、豊かに茂る樹木の枝にくつろいでいるところを想像した。それはまるで、咲き誇る花のようなのだ。